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平家物語に興味を持ち始めたきっかけは村上元三の「源義経」です。
いつ頃だったか「♪ 京の五条の橋の上…」という歌を口ずさむ時期があり、ある日アノ歌の部分をもっと詳しく知りたい…と、そのたぐいの書物を探した結果「源義経」にたどり着きました。
わくわくしながらいつかいつかと例のシーンを思い浮かべながら呼んでいましたが、一向に五条橋は出てきません。
そのうちに平泉に行く話になり元服の話まで進んでやっと、実際には五条橋の決闘は無かったことを知りました。
しかし、その頃には五条橋の闘いよりその先の話が楽しみで読みふけっていました。
若いうちは面白いというだけの小説でしたが、歳を重ねるごとに見方も代わり、頼朝の苦労や他の武将の気持ちもわかるようになり、必ずしも義経がヒーローという見方は無くなってきました。
義経の戦い方を幾つかあげてみると、
一、先陣を切って闘いに挑む事は一見勇ましくみえるが、コレは当時としてはタブーで、大将が敵大将の首を取るという事は、他の者がてがらを取れず下級兵士などの出世の道をふさぐことになる。
一、「鵯越の逆落とし」で知られる一ノ谷の合戦では、戦法とはいえ平軍の背後から攻め入った。
一、壇ノ浦の戦いでは、武器を持たない漕ぎ手に弓射ったり、敵の舟に飛びうつるというタブーを行なった。(八艘飛び)
一、「平家物語」の名場面も汚してしまう義経のワンシーン
扇の的と弓流し
源氏軍が意外に少数と知った平氏軍は、船を屋島・庵治半島の岸に寄せて激しい矢戦を仕掛けてきた。
平氏の猛攻に義経の身も危うくなるが、郎党の佐藤継信が義経の盾となり平氏随一の剛勇平教経に射られて討ち死にした。
夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。
外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国の武士・那須十郎を推薦する。
十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。与一はやむなくこれを引き受ける。
与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢を放った。
矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。
しばらく春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちた。『平家物語』の名場面、「扇の的」である。
美しい夕日を後ろに、赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏は箙を叩いてどよめいた。
これを見ていた平氏の武者、年五十ほど、黒革おどしの鎧を着、白柄の長刀を持っている者が、興に乗って扇のあった下で舞い始めた。
義経はこれも射るように命じ、与一はこの武者も射抜いて船底にさかさに射倒した。
平家の船は静まり返り、源氏は再び箙を叩いてどよめいた。あるものは「あ、射た」といい、あるものは「心無いことを」といった。
怒った平氏は再び攻めかかる。
激しい合戦の最中に義経が海に落とした弓を敵の攻撃の中で拾い上げて帰り「こんな弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱だ」と語った『平家物語』の「弓流し」のエピソードはこの際のことである。
(ウィキペディアより抜粋)
そのような事もあってプライドの高い武将は義経などについていけない…となってゆくのである。
頼朝にすれば、「待て」と言っても無視して勝手に攻める。
政治的に話しを進めようと思う頼朝にすれば目の上のタンコブであるが兄弟ということもあり強いことも言えない。
が、義経を良く思わない武将の策略にはまってゆき遂には滅びるのである。
今年はあちこちで平家を取り上げられることでしょう。
ここでも今後は能、百人一首なども含め平家にまつわる話しを書いていきます。
女 官 装 束 (女官装束の図は資料参考)
平安という言葉からまっ先に連想されるのは、俗に「十二単」と呼ばれる唐衣でしょう。 しかし、その着衣には季節ごと幾つかの法則があることを知る人は少ないかも知れません。 ネット検索出来る資料を調べてみましたがどうもわかりにくくここで簡単に説明したいと思います。
ネットでの資料1 「十二単」 / 資料2 「襲色目と重色目」
上の資料ではふりがなをうっていないのでまず基本色と呼び方から説明します。
赤色(あかいろ) 紅梅色(こうばいいろ) 鴇色(ときいろ) 紅(くれない) 洗朱(あらいしゅ) 杏色(あんずいろ)
朱色(しゅいろ) 檜皮色(ひわだいろ) 薄黄蘗(うすきはだ) 鬱金色(うこんいろ) 山吹色(やまぶきいろ)
桑色白茶(くわいろしらちゃ) 鶸萌黄(ひわもえぎ) 木賊色(とくさいろ) 青朽葉(あおくちば) 浅葱色(あさぎいろ)
水浅葱(みずあさぎ) 鈍色(にびいろ) 納戸色(なんどいろ) 縹色(はなだいろ) 薄縹(うすはなだ)
花色(はないろ) 蒲萄色(えびいろ) 二藍(ふたあい) 紫色(むらさきいろ) 蘇芳(すおう) 江戸紫(えどむらさき)
表と裏との配合の一例
俗に十二単と呼ばれる「唐衣・裳姿」は、平安中期から日本化され、晴れの服装(正装)になりました。
この服装は、唐衣(からぎぬ)・裳(も)・表着(うわぎ)・袿(うちぎ)・打衣(うちぎぬ)・単(ひとえ)・小袖(こそで)で構成されています。
肉体の線を表すことができず、活動的ではありませんでしたが、優美であり下に着ているものほど、ゆきとたけが大きく仕立てられているので、襟袖口・裾には、衣の重なり合った色が美しく出ます。
それらの色の取合せが服飾美の中心になり、色の取合せ(配色)には、着用者の人柄・教養などが反映されているものとして重視されました。
女官装束着用順序
① 白小袖を着て、緋(ひ)の長袴をはく。 袴のひもは右わきで結びたらす。
② 単(ひとえ)を着る。
③ 打衣(うちぎぬ)を着る。 五衣(いつぎぬ)の上に着ることもあった。 普通は紅の色である。
④ 袿(うちぎ)を着る。 単よりやや小さく、古くは十数枚も重ね、のち五枚に定まって、五ッ衣と呼ばれた。
⑤ 表着(うわぎ)を着用する。
⑥ 唐衣(からぎぬ)をはおる。 唐衣の前は袖たけと同じで、後ろはそれよりも短い袷(あわせ)。 着用する時は、襟を外へ折り返す。
⑦ 裳(も9を腰につけ、小腰(こごし)という美しい小ひもを唐衣の下の前面で結んで垂らし、懐に帖紙(たとうがみ)を入れ、手に檜扇を持つ。
← 平安京図 (クリックで拡大)
① 九条殿 ② 紅梅殿 ③ 三条桟敷殿 ④ 六角堂 ⑤ 三条西殿 ⑥ 三条東殿 ⑦ 高倉宮 ⑧ 奨学院 ⑨ 勧学院 ⑩ 右京職
⑪ 左京職 ⑫ 弘文院 ⑬ 一条院 ⑭ 検非違使庁 ⑮ 祇陀林寺 ⑯ 山条院 ⑰ 花山院 ⑱ 枇杷殿 ⑲ 清和院・染殿 ⑳ 西北院
平安京の規模
東西 1508丈 (約4.57km) 南北 1753丈 (約5.31km)
区画の一例
東三条院の場合 = 一町×二町 (上図内1マスが一町)
一町は方40丈、小路は幅4丈であるから、東西40丈 (約120m)、南北は小路分を加えて、84丈 (約250m)という大邸宅になる。
平安京
朱雀大路 幅28丈 (約85m)のメインストリート。
羅城門 二重閣七間の巨大な門で朱雀大路の南端に、その偉容をそびえさせていた。
東西二寺 羅城門の左右に桓武天皇によって新京の鎮護として建立されたが、西寺は早く滅びた。
鴻臚館 朱雀大路をさしはさんで七条坊門の地には、外国使節を迎える国際ホテルとして、東西の鴻臚館があった。 「源氏物語」では、ここで、幼い光源氏が、来日中の高麗人から人相をみてもらった。
神泉苑 皇居直属の自然庭園で、歴代天皇の遊宴の場所になった。
高位の貴族の邸宅
京極殿 道長の邸宅で、土御門殿御堂殿ともいう。 「紫式部日記」冒頭の描写は有名である。
一条院 もと藤原師助輔(もろすけ)の邸宅。 のち道長所有となり、一条天皇は治世の大半をここで過ごした。
東三条院 上記参考 (関白藤原師実(もろざね)の頃の図) 更新中
閑院 良房の父、冬嗣の邸宅。 高倉天皇の里内裏などになった。
堀河院 基経がはじめ設けた摂関家の名邸のひとつ。 その山水の美は多くの詩歌によまれている。
紅梅殿 菅原道真(みちざね)の邸宅。
河原院 左大臣源融(みなもとのとおる)の邸宅。 歌枕塩釜の景を移して有名。 「源氏物語」 (夕顔)の舞台にもなった。
大内裏
平安京の最北部中央に、東西八町 (約1.2km)、南北十町 (約1.4km)の地域を占め、その四方に十二の門を設け、南面の中央に朱雀門があった。
← 大内裏図 クリックで拡大
八省院 はっしょういん (朝堂院ちょうどういん) 朱雀門をはいると、正面の応天門の内部にあった。 その正殿は大極殿である。 平安神宮は、その規模を小さくしてその形をうつしたものである。 天皇は毎月一日と十五日にここに臨んで政務をみるならわしになっていた。
豊楽院 (ぶらくいん)
① 神祇官 (じんぎかん)
② 太政官 (だいじょうかん)
八省
③ 中務省 (なかつかさしょう)
④ 式部省 (しきぶしょう)
⑤ 治部省 (じぶしょう)
⑥ 民部省 (みんぶしょう)
⑦ 兵部省 (ひょうぶしょう)
⑧ 刑部省 (ぎょうぶしょう)
⑨ 大蔵省 (おおくらしょう)
⑩ 宮内省 (くないしょう)
内裏
紫宸殿を正殿とする皇居である。
← 内裏図 (クリックで拡大)
紫宸殿 (ししんでん) 南殿(なでん)ともいう。天皇が毎日ここに臨んで政治をとる所。 太極殿の頽廃後は、即位の大礼も行なった。 いわゆる右近の橘、左近の桜は、その殿前に植えられていた。
仁寿殿 (じじゅうでん) もとは天皇の御座所であったが、清涼殿がこれに代わり、内宴相撲・蹴鞠などを行なう所となった。
清涼殿 (せいりょうでん) 天皇の常の在所で、四方拝小朝拝・叙位・除目などを行なった。
後涼殿 (こうりょうでん) 清涼殿と、渡殿でつづいている。 女御などの御殿。
里内裏 (さとだいり) 内裏の罹災などにより、離宮・貴族の邸宅に設けられた仮御所。
後宮 (こうきゅう) もと天皇の居住される前殿であった仁寿殿の後ろにあった殿舎の総称。 承香殿(しょうきょうでん)・常寧殿(じょうねいでん)・貞観殿(じょうがんでん)・弘徽殿(こきでん)・登花殿(とうかでん)・麗景殿(れいけいでん)・宣耀殿(せんようでん)・の七殿および昭陽舎(しょうようしゃ)・淑景舎(しげいしゃ)・飛香舎(ひぎょうしゃ)・凝華舎(ぎょうかしゃ)・襲芳舎(しほうしゃ)の五舎のことをいう。
弘徽殿 (こきでん) もと皇后は常寧殿におられたが、天皇の日常起居される所が、仁寿殿から清涼殿に代わってから、皇后・中宮・女御の在所となった。 「源氏物語」の「弘徽殿の女御」は、桐壷帝の后であった。 昭陽舎(梨壷)・淑景舎(桐壷)・飛香舎(藤壷)・凝華舎(梅壷)・襲芳舎(雷の壷)などは女官がいた。
いつ頃だったか「♪ 京の五条の橋の上…」という歌を口ずさむ時期があり、ある日アノ歌の部分をもっと詳しく知りたい…と、そのたぐいの書物を探した結果「源義経」にたどり着きました。
わくわくしながらいつかいつかと例のシーンを思い浮かべながら呼んでいましたが、一向に五条橋は出てきません。
そのうちに平泉に行く話になり元服の話まで進んでやっと、実際には五条橋の決闘は無かったことを知りました。
しかし、その頃には五条橋の闘いよりその先の話が楽しみで読みふけっていました。
若いうちは面白いというだけの小説でしたが、歳を重ねるごとに見方も代わり、頼朝の苦労や他の武将の気持ちもわかるようになり、必ずしも義経がヒーローという見方は無くなってきました。
義経の戦い方を幾つかあげてみると、
一、先陣を切って闘いに挑む事は一見勇ましくみえるが、コレは当時としてはタブーで、大将が敵大将の首を取るという事は、他の者がてがらを取れず下級兵士などの出世の道をふさぐことになる。
一、「鵯越の逆落とし」で知られる一ノ谷の合戦では、戦法とはいえ平軍の背後から攻め入った。
一、壇ノ浦の戦いでは、武器を持たない漕ぎ手に弓射ったり、敵の舟に飛びうつるというタブーを行なった。(八艘飛び)
一、「平家物語」の名場面も汚してしまう義経のワンシーン
扇の的と弓流し
源氏軍が意外に少数と知った平氏軍は、船を屋島・庵治半島の岸に寄せて激しい矢戦を仕掛けてきた。
平氏の猛攻に義経の身も危うくなるが、郎党の佐藤継信が義経の盾となり平氏随一の剛勇平教経に射られて討ち死にした。
夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。
外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国の武士・那須十郎を推薦する。
十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。与一はやむなくこれを引き受ける。
与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢を放った。
矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。
しばらく春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちた。『平家物語』の名場面、「扇の的」である。
美しい夕日を後ろに、赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏は箙を叩いてどよめいた。
これを見ていた平氏の武者、年五十ほど、黒革おどしの鎧を着、白柄の長刀を持っている者が、興に乗って扇のあった下で舞い始めた。
義経はこれも射るように命じ、与一はこの武者も射抜いて船底にさかさに射倒した。
平家の船は静まり返り、源氏は再び箙を叩いてどよめいた。あるものは「あ、射た」といい、あるものは「心無いことを」といった。
怒った平氏は再び攻めかかる。
激しい合戦の最中に義経が海に落とした弓を敵の攻撃の中で拾い上げて帰り「こんな弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱だ」と語った『平家物語』の「弓流し」のエピソードはこの際のことである。
(ウィキペディアより抜粋)
そのような事もあってプライドの高い武将は義経などについていけない…となってゆくのである。
頼朝にすれば、「待て」と言っても無視して勝手に攻める。
政治的に話しを進めようと思う頼朝にすれば目の上のタンコブであるが兄弟ということもあり強いことも言えない。
が、義経を良く思わない武将の策略にはまってゆき遂には滅びるのである。
今年はあちこちで平家を取り上げられることでしょう。
ここでも今後は能、百人一首なども含め平家にまつわる話しを書いていきます。
女 官 装 束 (女官装束の図は資料参考)
平安という言葉からまっ先に連想されるのは、俗に「十二単」と呼ばれる唐衣でしょう。 しかし、その着衣には季節ごと幾つかの法則があることを知る人は少ないかも知れません。 ネット検索出来る資料を調べてみましたがどうもわかりにくくここで簡単に説明したいと思います。
ネットでの資料1 「十二単」 / 資料2 「襲色目と重色目」
上の資料ではふりがなをうっていないのでまず基本色と呼び方から説明します。
赤色(あかいろ) 紅梅色(こうばいいろ) 鴇色(ときいろ) 紅(くれない) 洗朱(あらいしゅ) 杏色(あんずいろ)
朱色(しゅいろ) 檜皮色(ひわだいろ) 薄黄蘗(うすきはだ) 鬱金色(うこんいろ) 山吹色(やまぶきいろ)
桑色白茶(くわいろしらちゃ) 鶸萌黄(ひわもえぎ) 木賊色(とくさいろ) 青朽葉(あおくちば) 浅葱色(あさぎいろ)
水浅葱(みずあさぎ) 鈍色(にびいろ) 納戸色(なんどいろ) 縹色(はなだいろ) 薄縹(うすはなだ)
花色(はないろ) 蒲萄色(えびいろ) 二藍(ふたあい) 紫色(むらさきいろ) 蘇芳(すおう) 江戸紫(えどむらさき)
表と裏との配合の一例
季節 | 重色目 | 表 | 裏 |
春 | 梅 紅梅 山吹 |
白 紅 朽葉(くちば) |
蘇芳(すおう) 紫 黄 |
夏 | 葵(あおい) 杜若(かきつばた) |
薄青 萌黄(もえぎ) |
薄紫 紅梅 |
秋 | 紫苑(しおん) 龍胆(りんどう) 萩(はぎ |
薄色 薄蘇芳 蘇芳 |
青 青 青 |
冬 | 枯野(かれの) | 黄 | 薄色か白 |
雑 | 薄色(うすいろ) | 薄色 | 薄色か白 |
俗に十二単と呼ばれる「唐衣・裳姿」は、平安中期から日本化され、晴れの服装(正装)になりました。
この服装は、唐衣(からぎぬ)・裳(も)・表着(うわぎ)・袿(うちぎ)・打衣(うちぎぬ)・単(ひとえ)・小袖(こそで)で構成されています。
肉体の線を表すことができず、活動的ではありませんでしたが、優美であり下に着ているものほど、ゆきとたけが大きく仕立てられているので、襟袖口・裾には、衣の重なり合った色が美しく出ます。
それらの色の取合せが服飾美の中心になり、色の取合せ(配色)には、着用者の人柄・教養などが反映されているものとして重視されました。
女官装束着用順序
① 白小袖を着て、緋(ひ)の長袴をはく。 袴のひもは右わきで結びたらす。
② 単(ひとえ)を着る。
③ 打衣(うちぎぬ)を着る。 五衣(いつぎぬ)の上に着ることもあった。 普通は紅の色である。
④ 袿(うちぎ)を着る。 単よりやや小さく、古くは十数枚も重ね、のち五枚に定まって、五ッ衣と呼ばれた。
⑤ 表着(うわぎ)を着用する。
⑥ 唐衣(からぎぬ)をはおる。 唐衣の前は袖たけと同じで、後ろはそれよりも短い袷(あわせ)。 着用する時は、襟を外へ折り返す。
⑦ 裳(も9を腰につけ、小腰(こごし)という美しい小ひもを唐衣の下の前面で結んで垂らし、懐に帖紙(たとうがみ)を入れ、手に檜扇を持つ。
← 平安京図 (クリックで拡大)
① 九条殿 ② 紅梅殿 ③ 三条桟敷殿 ④ 六角堂 ⑤ 三条西殿 ⑥ 三条東殿 ⑦ 高倉宮 ⑧ 奨学院 ⑨ 勧学院 ⑩ 右京職
⑪ 左京職 ⑫ 弘文院 ⑬ 一条院 ⑭ 検非違使庁 ⑮ 祇陀林寺 ⑯ 山条院 ⑰ 花山院 ⑱ 枇杷殿 ⑲ 清和院・染殿 ⑳ 西北院
平安京の規模
東西 1508丈 (約4.57km) 南北 1753丈 (約5.31km)
区画の一例
東三条院の場合 = 一町×二町 (上図内1マスが一町)
一町は方40丈、小路は幅4丈であるから、東西40丈 (約120m)、南北は小路分を加えて、84丈 (約250m)という大邸宅になる。
平安京
朱雀大路 幅28丈 (約85m)のメインストリート。
羅城門 二重閣七間の巨大な門で朱雀大路の南端に、その偉容をそびえさせていた。
東西二寺 羅城門の左右に桓武天皇によって新京の鎮護として建立されたが、西寺は早く滅びた。
鴻臚館 朱雀大路をさしはさんで七条坊門の地には、外国使節を迎える国際ホテルとして、東西の鴻臚館があった。 「源氏物語」では、ここで、幼い光源氏が、来日中の高麗人から人相をみてもらった。
神泉苑 皇居直属の自然庭園で、歴代天皇の遊宴の場所になった。
高位の貴族の邸宅
京極殿 道長の邸宅で、土御門殿御堂殿ともいう。 「紫式部日記」冒頭の描写は有名である。
一条院 もと藤原師助輔(もろすけ)の邸宅。 のち道長所有となり、一条天皇は治世の大半をここで過ごした。
東三条院 上記参考 (関白藤原師実(もろざね)の頃の図) 更新中
閑院 良房の父、冬嗣の邸宅。 高倉天皇の里内裏などになった。
堀河院 基経がはじめ設けた摂関家の名邸のひとつ。 その山水の美は多くの詩歌によまれている。
紅梅殿 菅原道真(みちざね)の邸宅。
河原院 左大臣源融(みなもとのとおる)の邸宅。 歌枕塩釜の景を移して有名。 「源氏物語」 (夕顔)の舞台にもなった。
大内裏
平安京の最北部中央に、東西八町 (約1.2km)、南北十町 (約1.4km)の地域を占め、その四方に十二の門を設け、南面の中央に朱雀門があった。
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八省院 はっしょういん (朝堂院ちょうどういん) 朱雀門をはいると、正面の応天門の内部にあった。 その正殿は大極殿である。 平安神宮は、その規模を小さくしてその形をうつしたものである。 天皇は毎月一日と十五日にここに臨んで政務をみるならわしになっていた。
豊楽院 (ぶらくいん)
① 神祇官 (じんぎかん)
② 太政官 (だいじょうかん)
八省
③ 中務省 (なかつかさしょう)
④ 式部省 (しきぶしょう)
⑤ 治部省 (じぶしょう)
⑥ 民部省 (みんぶしょう)
⑦ 兵部省 (ひょうぶしょう)
⑧ 刑部省 (ぎょうぶしょう)
⑨ 大蔵省 (おおくらしょう)
⑩ 宮内省 (くないしょう)
内裏
紫宸殿を正殿とする皇居である。
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紫宸殿 (ししんでん) 南殿(なでん)ともいう。天皇が毎日ここに臨んで政治をとる所。 太極殿の頽廃後は、即位の大礼も行なった。 いわゆる右近の橘、左近の桜は、その殿前に植えられていた。
仁寿殿 (じじゅうでん) もとは天皇の御座所であったが、清涼殿がこれに代わり、内宴相撲・蹴鞠などを行なう所となった。
清涼殿 (せいりょうでん) 天皇の常の在所で、四方拝小朝拝・叙位・除目などを行なった。
後涼殿 (こうりょうでん) 清涼殿と、渡殿でつづいている。 女御などの御殿。
里内裏 (さとだいり) 内裏の罹災などにより、離宮・貴族の邸宅に設けられた仮御所。
後宮 (こうきゅう) もと天皇の居住される前殿であった仁寿殿の後ろにあった殿舎の総称。 承香殿(しょうきょうでん)・常寧殿(じょうねいでん)・貞観殿(じょうがんでん)・弘徽殿(こきでん)・登花殿(とうかでん)・麗景殿(れいけいでん)・宣耀殿(せんようでん)・の七殿および昭陽舎(しょうようしゃ)・淑景舎(しげいしゃ)・飛香舎(ひぎょうしゃ)・凝華舎(ぎょうかしゃ)・襲芳舎(しほうしゃ)の五舎のことをいう。
弘徽殿 (こきでん) もと皇后は常寧殿におられたが、天皇の日常起居される所が、仁寿殿から清涼殿に代わってから、皇后・中宮・女御の在所となった。 「源氏物語」の「弘徽殿の女御」は、桐壷帝の后であった。 昭陽舎(梨壷)・淑景舎(桐壷)・飛香舎(藤壷)・凝華舎(梅壷)・襲芳舎(雷の壷)などは女官がいた。
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